








小学生1年(1990年)の冬、20kmほど離れたところに住んでいた父・康史の友人がMTBに乗り、我が家に訪れたのがきっかけ。それに父が感化されて、家族で自転車ツーリングを始める。
また1990年に宇都宮で行われた世界選手権を兄・始が偶然に見ていたこともあり、競技の世界にも興味を持ち始めていた。
このろから藤沢市にあるサイクルショップ“ワタナベレーシングサイクル”の店長で当時現役競輪選手の渡辺努氏の指導を受け始める。
小学2年(1991年)の時に、兄2人とともにMTBレース(シマノRE-EX)に初参加。結果は小学生クラスで15位。ただ、まだこのときは競技ではなくファミリーイベントとしてレースに参加していた。
小学3年(1992年)で初めてロードレース(シマノ鈴鹿ロード)に参加。小学校5年生(1994年)のときにロードレース初優勝(パナソニックカップ)を飾る。その後、高校入学までに、全国のロード、MTBの大会で20連勝以上を含む多くの優勝を記録。この頃から本場ヨーロッパでロードレースの選手になることを夢見るようになる。
同時にMTBのJシリーズXC(クロスカントリーでは、中学3年時で最高のクラスに昇格。MTBレース界でも有望視されていた。
また、中学3年時にひとつ上の兄・匠が、強豪の日本鋪道レーシングチーム(現NIPPO)に入り、フランスを拠点にレース活動を始める。匠はその後6シーズンヨーロッパを中心に活動することになる。
高校は高体連の自転車競技部に所属。兄・匠の影響もありヨーロッパに渡ることを目標に、自転車競技に励む。1年時に国体少年ロードで2位入賞。3月に行われる高校選抜では1年生、2年生時に2年連続優勝を飾った。
2年の夏には初の海外遠征(カナダ)を経験。ツール・ド・ラビティビ(ジュニアカテゴリーのツール・ド・フランスとも言われるステージレース)というレースで本場のスピードを実感。自分にもできるとヨーロッパプロへなるという目標が具体化した。またこの年ジュニア1年目で世界選手権(フランス・プルエー)に初めて参加し、完走を果たした。
高校3年時には全日本チャンピオンをはじめ、アジアチャンピオンのタイトルを獲得。2度目の世界選手権(ポルトガル・リスボン)に参加、完走。
高校卒業後、浅田顕監督が率いる“チームブリヂストン・アンカー”に加入。海外経験をつむために、フランスのトップアマチュアチーム“ヴェロクラブ・ラポム・マルセイユ”に派遣される。
3年間、U23カテゴリー(19歳〜22歳のカテゴリー)の世界トップの大会に参加。2年目、ワールドカップ戦でもあるパリ〜ルーベ・エスポワール(U23 カテゴリーでステータスの高いワンデイレース)で、終盤までレースの展開に絡んで13位に入る。U23カテゴリー2年目としては最上位。ちなみに1年目にも初参加ながら28位という高記録を残している。
3年目の8月下旬から9月初旬に行われたジロ・デッラ・ヴァッレ・ダ・アオスタ(プロスカウトも注目するプロの登竜門といわれるステージレース)の第1ステージで区間優勝。これがインターナショナルレースで初勝利となった。3年目シーズンは前半から好調で、数多く入賞していたが、なかなか優勝ができなかった。しかし、シーズン後半にはなってやっと結果を残すことが出来た。
またU23カテゴリーでも3年連続で日本代表として世界選手権に出場。1年目(ベルギー・ゾルダー)は同タイムの先頭集団43位でゴール。2年目(カナダ・ハミルトン)は24位。3年目(イタリア・ヴェローナ)はメカトラブルを抱えながら29位。3年目は入賞が期待されたが、残念な結果となってしまった。
そして2004年に世界トップチームであるディスカバリーチャンネルプロサイクリングチームからスカウトを受けて、2005年より日本人初のUCIプロツアー選手となる。チームメイトにはこの年ツール・ド・フランス7連覇を果たすランス・アームストロング、シドニーオリンピック金メダリストのヴィアチェスラフ・エキモフ、ジロ・デ・イタリア2勝のパオロ・サヴォルデッリなどビックネームが名を連ねる。プロ1年目はまだU23カテゴリーではあったが、プロチーム所属となったためにエリートカテゴリーに昇格。世界選手権でもエリートカテゴリーに初参加。
2006年は全日本選手権ロード、TTともに優勝し、日本チャンピオンタイトルを獲得。日本チャンピオンジャージを着用して、UCIプロツアーに参戦。10月に行われたチューリッヒ選手権では序盤から逃げて、国際映像でその姿が全世界に放送される。また11月にはドキュメンタリー番組「情熱大陸」に出演。
プロ3年目となる2007年。5月にスイスで行われたツール・ド・ロマンディ第3ステージでステージ2位に入り、日本人で初めてUCIプロツアーポイントを獲得。また8月に行われたヴァッテンファール・サイクラシックス(ドイツ)、GP西フランス・プルエー(フランス)でも終始までトップ集団でレースを展開して、ワンデイレースでの可能性を見せた。
2008年よりオランダ籍のスキル・シマノプロフェッショナルサイクリングチームに移籍。4月ロンド・ファン・フラーンデレンに出場し、プロ4年目で春に行われる北のクラシック6戦すべてに出場したことに。また4月に奈良で行われたアジア自転車選手権エリート男子で優勝し、アジアチャンピオンタイトルを獲得。北京オリンピック日本代表として出場。9月にはヴァッテンファール・サイクラシックス(ドイツ)では16位に入り、UCI プロツアーワンデイレースにおいて最高順位を更新した。
2009年、ツール・ド・フランス初出場を果たす。第3ステージで区間8位、第19ステージでは区間7位に入る。最終第21ステージでは、シャンゼリゼ大通りでアタックをしてエスケープグループを形成。その中でも果敢な走りが評価され敢闘賞を獲得。同時に日本人として初めてのツール・ド・フランス完走を果たした。また、2年振りに出場した世界選手権では過去最高位の57位でゴール。
2010年、ツール・ド・フランス前人未到の7連覇を果たしているランス・アームストロングが所属し、監督としてツール・ド・フランス9勝を記録しているヨハン・ブリュイネール率いるチーム・レディオシャックに移籍。